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    田比🥚

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    田比🥚

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    ymd先生とdi先生中心、ドタバタコメディから始まるSFファンタジー、アニメありき、なんでも許せる人向け
    別途後日談の番外編あり

    登場人物
    ymd先生、di先生
    一は、rktさん、しな先生

    そして君は春に帰る【土井先生、少年になるの段】晩春、薄紫のかんざし飾りが
    そのあどけない頬を撫でただろう
    あなたと共に参ります
    まだかよわい手を伸べて
    共に行かむと歩んだろう
    すべてを奪った風の名残りが
    君を軋ませるのか 未だに

    そして君は春に帰る
    何も知らなかった 無垢なる花に護られて



       そして君は春に帰る



     どぅわっひゃーーーーーー!!!!
     忍術学園に奇声がこだました。今は朝、ヘムヘムが鳴らす起床の鐘の音より少し早い時間。周囲の鳥獣達も飛び上がらせたその声に、便所に立っていた山田伝蔵は発信源へと素早く走った。
    「なんだ、どうした!?」
     その発信源は教員長屋の自室、もとい、山田伝蔵と土井半助の相部屋である。
    「わあああっ!」
     障子を明けた途端、土井の寝具に何かの影がくるまった。山田は目をパチクリさせながら、震える上掛け団子の中身を改める。そう……っとめくり上げてみると、見慣れた茶色のボサボサ頭……
    「や、山田先生〜〜〜!」
     そこには土井半助が、いるはずだった。いつもの土井半助が……
    「だ、誰かね、君は……」
    「土井です〜〜〜〜! 土井半助ですぅ〜〜〜〜!!」
     土井の寝間着に着られて、土井の寝具に蹲って泣いている、その……男の子が、自分は土井半助だと名乗っている。
    「は、はあ……?」

     寝具を片付けた教員長屋の一室。寝間着のままの正座で男が二人、険しい顔と困りきった顔で向かい合っている。一人は初老過ぎで、一人は……少年。その少年こと、ぶかぶかの寝間着でぐるぐる巻きの小さな土井半助(仮)は、山田伝蔵からの質問に悩ましいような苦しいような、申し訳ないような、とにかく全部ひっくるめて、ひどく胃が痛そうな顔で応じている。
    「歳は」
    「二十五です…」
    「名前は」
    「土井半助です……」
    「ここは」
    「忍術学園の教員長屋です……」
    「職は」
    「忍術学園一年は組教科担当担任です…」
    「教師始めて何年」
    「六年経ちましたぁ…………」
    「一年は組は」
    「落第生……でも、やり方次第できっと伸びます!」
     土井半助だった。聴取していた山田は二重三重の意味で頭を抱える。
     しかし、どういうわけだろう。姿は完全に少年なのだ。忍たまと言う方がいっそ自然だ。いや、体の大きさだけで言うなら恐らく一年生よりまだ少し小さい。
    「参ったなぁ。半人前がホントに半人前になっちゃったよ」
     それは言わないお約束…とまだ泣いている土井の鼻をかんでやりながら、山田は更に問うてみる。
    「こうなった原因に何か心当たりはないのか」
    「それがさっぱり……、あ」
     何か思い出したような土井に、思い当たるのかと山田はぐうっと見入る。
    「そういえば昨日、また胃が痛むので医務室に行って、新野先生にいつもの胃薬をもらいました」
    「その薬を飲んだのか」
    「もちろん。でも、いつもの胃薬でしたし、飲んだ後も何もなく……」
     山田は話を聞いてすっくと立ち上がると手早く着替えを始める。教員用の黒い忍び装束を着ながら溜め息をついて、「アンタも早く支度なさいな……、」一応付け加える「土井先生」
    「でも山田先生、服の丈が……」
     合わないんです〜〜〜とピヨピヨ泣く土井。
     だめだ、今の土井はいつにも増して泣き虫の助だ。そして今の土井は普段の土井のスケール五分の一フィギュアのようなものなのだ。仕方なく山田は土井の手に握られた、今の彼には大きすぎる黒い教員用装束を取り上げて、光の速さで直しを入れる。数分で、物の見事に今の土井少年ぴったりサイズの教員用装束に仕上がった。
    「切らずに纏っただけだから、また元に戻せます。一先ずこんなもんでいいでしょう」
     手渡された土井は思わず「おおっ!」と感嘆の声を上げる。
    「どうせ独り身なんだし、アンタもこんくらいできるようになんなさい」
     きり丸に甘えすぎなんですよ。漏れなくピシャリとした伝子風お小言を被せられた土井は混乱と居た堪れなさの板挟みにヒィィンと泣きながら支度をしたのだった。

       ◇◇◇

    「と、いうことなのです」
    「ふぅむ…………?」
     かっこーーーーん。
     風流なはずの鹿威しの音もトンマな転換演出に聞こえる授業時間前の学園長先生の部屋。腕組みをした大川学園長の目の前には畏まって報告する山田と、同じ姿勢のミニマム土井。
    「して、新野先生は何と」
    「はぁ。それが、確認して処方したが、記憶と記録からしても、やはりいつもの胃薬であったと」
    「新野先生がそう言うなら間違いなかろう。しかし……」改めて学園長は土井に首を振り「また見事にちいちゃくなったのう」
     感心めいた声を出す学園長に見つめられ、土井は益々居心地が悪そうだ。
    「薬の副作用以外の可能性も考えられます。それから、念のため簡易に身体検査を受けさせましたが、健康面に問題はないそうです。新野先生も引き続き調べてくださいますが……」
    「問題は、今日のは組の教科授業か」
    「はぁ……」山田が溜息のような合いの手で受ける。
    「健康であるとはいえ、この姿で授業に出してよいものかと。わたしが受けてもいいのですが……」
     山田は頭を掻きながら隣で縮こまる土井を見やる。
    「土井先生は、どうじゃ?」
     学園長が首を振れば、縮んだ体を更に肩まで縮こめた土井がおずおずと答える。
    「まだ今週の進度もままならないので……」
    「やる気がある、ということじゃな。結構! やってもらおうではないか」
     大丈夫かぁ…? と言いたげな山田の横目が土井に注がれるが、授業が進められる安堵感に小涙を落とす土井は気づかない。そもそも誰が教壇に立ったとて、は組の授業進捗に劇的変化があるとは思われないことを担任である土井自身が失念しているのも懸念点だったのだが。

     エーーーーーーッ!!!!
     一年は組の教室から甲高いどよめきが沸き起こる。一際耳を引いたのは困惑しきった乱太郎の声。
    「土井先生が小さくなっちゃった!?」
     山田と共に入室した少年を初めて見た時、生徒達はそれが誰だかすぐには分からなかった。山田から要件を告げられてにわかに理解したところ、先程の大声が放たれたというわけだ。
    「ぼくらと同じくらいに見えるけど……」とは、しんべヱ。
    「そうかなぁ。ぼくより小さいよ?」
    「背はしんべヱと同じくらいじゃない?」
     しんべヱの後ろの席で喜三太と兵太夫が反応する。
    「本当に土井先生なんスか? 昨日の今日なのに……」
     忍術学園以外でも土井と生活を共にするきり丸は、やはり一層当惑を隠せないようだ。自分よりも小さくなってしまった保護者を前に腕組みをして色々思案するのは週末バイトの計画だ。土井が知ったら、わたしの心配よりバイトか、と泣くだろう。
     そこへ落とされる正統派鶴の一声。
    「みんな、落ち着けよ。姿は変わっても土井先生なのには間違いない。山田先生がそう仰るのだし……。何より、一番お辛いのは、きっと土井先生自身だよ。こういう時こそ、みんなで協力して、土井先生の負担を減らしてあげよう!」
     庄左衛門の委員長らしい振る舞いに場は落ち着き、一気に団結の雰囲気が漲るが、涙腺が普段の三倍比に緩い土井少年教員は我が教え子の立派な姿においおい嬉し泣きしてしまう。
    「老けたわけじゃないのに、なァんでそんなに泣き上戸かな〜?」
     土井がこの有り様では大盛り上がりの教室で山田のぼやきを拾う者はいない。代わりにふとした乱太郎の軽口が、ぽん、と飛び出してくる。
    「でもこういうのって、わたしの役目だと思わない?」
    「そんなら、おれだって手足伸びてるはずじゃん」
    「ぼく、うさぎさん人形に泣きべそかかされちゃう……」
     乱太郎、きり丸、しんベエは、またいつもの調子で勝手気ままだ。
    「きりちゃんは小銭のためならもう首でも耳でも伸びてるじゃない」
    「そういえばそっか〜」
    「ま、どの局もNGだろうけど」
     きり丸のオチで切り良くハハハハハと軽い笑いを起こす三人。
    「人の大事にのんびりしとる場合かァーーーーッ!!!!」
     土井のボーイソプラノな絶叫で戸外の鳥がバサバサと飛び立っていった。

    「ところで、なんで土井先生は子供の姿になっちゃったんですか?」
     自分の席できちんと挙手して質問するきり丸に、土井はしおしお顔を披露する。
    「それが……わたしにも分からないんだ。目が覚めたらこうなっていて……」
    「わしも叫びを聞きつけてやっと気づいたくらいだ」
     山田までもがそう言い添えれば、事は謎を深めるばかり。生徒達はウ〜〜〜ンと頭を悩ませる。原因が分からなければ解決策も見つけられない。その場は答えの出せない一休さんがたくさんいるような絵面になってしまった。
    「スモールライトで小さくなったのかな?」
     また乱太郎がそんなスットンキョウを口走る。同じくご長寿子供向け番組だからってあまりに節操がない。山田は咳払いをして、忍術学園に未来道具ネタを持ち込むなと釘を差した。

    「まあ、わたしの話はもういい。それより授業を始めるぞ!」
     今週も遅れ通しなんだ……トホホ、と、ただでさえ小さな背を更に縮こまらせて黒板の前に立つ小さな土井に、忍たま達がまたまたどよめき立つ。
    「ええ! 土井先生、そのまま授業するんですか?」
    「健康上はどこも問題ないからな。学園長先生のお許しも頂いてある」
    「いやいやいや、問題大ありでしょ〜! 学園長先生のお墨付きなんか全然アテになんないし!」
     きり丸のツッコミはその通りにしても、何よりもの問題である授業が遅れっぱなしなことは当たり前過ぎるからなのか、もはや誰も触れてこない。
    「でも、先生用で子供サイズの服があるなんて知りませんでした」
    「ああ! これは、いつもわたしが着ているものを山田先生が今朝纏ってくださったんだ」
     横から投げられたしんべヱの感想に腕を広げて意気揚々と仕立ての良さを見せる土井。他の生徒達と山田はそののんびりさ加減に、大丈夫かなぁ、と一様に疑心暗鬼の眼差しを向けている。
    「わたし達と見た目変わらないのに、着る物は先生用なんですね」
    「だって先生だも〜ん」
    「子供のくせに生意気だな〜」
     ぼくも黒い忍装束着てみたいな〜と暢気を続けるしんべヱの傍ら、土井に向けて、かわいくね〜と続けるきり丸の憎まれ口はいささか刺々しい。
    「お前達だってかわいくないわい」
     赤点卒業してから言え! 出席簿を開きながらぷりぷりしてみせる土井に、山田がまぁまぁと宥めに入る。が、それを打ち破る乱太郎達の、とびっきり可愛らしい悲鳴。
    「え〜〜〜!? こんなに可愛いのに〜〜〜??」
    「ええい、やかましい! 早く授業に戻れーーーー!!」
     忍術学園には小さくなっても苦労させられる土井の叫びが響くのであった。

    「土井先生、小さくなって怒りっぽくなったよね」
    「前からそうじゃなかったっけ?」
    「そうだっけ〜?」
     出欠を取り終えた尻から、乱太郎、きり丸、しんべヱのひそひそ声が土井の肩を震わせる。先程の庄左衛門の一喝はどこへやら、またもや葉先を揺らめかせ始めるは組の教室。一応、付添役として教室の端で成り行きを見守る山田も腕組み腕組み、心配そうである。
     気を取り直したい土井は、をほん! と咳払いをすると、少年の声にしては仰々しい口調で「それでは授業を始める」と無理やり授業を始めることにしたようだ。
     伊助を指して、にんたまの友を読み上げさせる。そこにはいつもの教師然とした土井の姿があり、姿は違えど教室の空気はまたいつも通り……居眠りや注意散漫を指摘する土井の声が飛ぶのであった──。
    (わし、教科担当じゃなくてよかった〜……)
     隅で山田がこっそり思ったことは内緒である。 

    「では、次は板書をするが、みんな今まで説明したことを元に、それぞれの術についてよく考えながら手元に書き取るように」
     言うと、土井は黒板に向かっていつものように手を伸ばす……のだが。
    「……と、とどかない……」
     絶望的に身長が足りなかった。黒板に届かないのである。
     普段の土井は身の丈六尺。黒板の上の壁にだって優に手が届こうが、今はそうはいかないのだ。板書となると、背伸びをしても、いつもの書き出し位置にすら程遠い。
    「土井先生、無理をせんでも。今はできる範囲で……」
     山田が助言して板書を代わろうとするのだが、土井は悔しさを隠しもしない表情で「いやです! やります! できます!」とぶち上げる。
     しかし、爪先立ちになっても、兎のようにぴょんぴょん飛び跳ねてみても、届かないものは届かないのである。当たり前だ、しんべヱと同じくらいの背丈なのだから。手頃な台もすぐに出てこないとなると、土井は再び涙目を晒す羽目になる。
    「なーんか緊張感がないなぁ」
    「緊張感がないのはいつものことだと思う」
    「そこ! 私語は慎むように!」
     きり丸としんべヱのぼやきを指差しても子供の集中力は天の邪鬼、一度弛んでしまった糸を張り直すのは難しい。土井はやきもきを募らせていく。
    「はいはい、もう。これでいいでしょ」
     山田が出した解決案は生徒達の気を更に緩めるものだった。
    「は、放してください、山田先生! わたしは子供じゃありません!」
     言いながら、子供の姿で足をジタバタさせる。しかし土井がそう喚くのも無理はない。黒板に板書できるよう、山田が土井の両脇に手を差し込んで抱え上げているのだ。
    「だ〜って仕方ないでしょう、アンタ。自分で出来ないことを自分でやりたいだなんて言うんだから」
    「やれなくありません、できますもん! わたし、ひとりでできますもんっ!!」
     生徒達は担当教師達のその応酬を前に、ダメダコリャ、と本日の授業に諦めを決め込んで肩をよれさせる。
    「土井先生、またお腹痛くなっちゃいそうだね」
     アハハ、と乾いた笑いを吐き出す三治郎に、「いや、胃痛よりも……」と受け合う虎若は当惑を隠さないのだが、その左横から上がる金吾の声はもっと真に迫っている。
    「な、泣いてる……」
     そう、泣いているのだ。わあわあと、正に子供のように、コンパクト化した小さな土井半助が黒板の前で山田に抱えられながら泣いている。
    「はーんすけぇ〜」とは、脱力しながら仕方がないなぁという顔でタメ息する山田の声だ。例えるなら、その姿はまるで休日にデパートで泣き喚く子をあやす父親のそれだ。
    「これ、半助。やめなさい、生徒の前でみっともない。先生だろう?」
    「だってぇ! だってだってだって〜!」
     正直、本物の十歳児だってここまで駄々を捏ねたりしない、のは実際の十歳児であるは組み連中が思うのは言うに及ばず。やはり土井は精神まで十歳児より幼くなってしまったのだろうか。土井が後で元に戻って思い出したら、顔から火を噴くか穴を掘って埋まりたくなるか、もしくはどちらもしたくなるほど恥ずかしく思うことだろう。ミニ土井のそんな狼藉ぶりに、流石の腕白ぼうず達も「忘れてあげよう」と思っている。にも関わらず、子供達の良心を薙ぎ払う言葉が、そのミニ土井の口から吐き出されるではないか。
    「山田先生、わたしが悪いんですか!? あんまりです! わたしは普通に授業がしたいだけなのに! みんなわたしの言うこと聞いてくれない!」
    「えー!? なんですかぁ! それじゃあ、まるでわたし達が悪いみたいじゃないですか!?」
    「そーだ、そーだ!」「ちょっと子供っぽすぎますよ、土井先生!」と、すかさず援軍に回るきり丸としんべヱ。この理不尽な状況に子供ながら対応しようと協力を惜しまなかった自分達を蔑ろにしていると、徹底抗戦の様相だ。しかし、それに間髪入れない土井のツッコミ。
    「どの口が言うか!!」
     明らかに平素の土井より言動が幼くなっていることを山田が指摘するより前に、土井の叫びに呼応するようにして教室の入口がピシャァンッ! と小気味良く開け放たれた。
    「無駄に騒ぐのはよしていただきたい!!」
     朗々と響くは、一年い組安藤夏之丞先生による怒鳴り込み。もはや教室中で子供達が喚き合う状況で、あわや生徒と取っ組み合いでも始めそうな土井の代わりに安藤に平謝りして引き取ってもらったのは山田だった。
     窓外の青空清々しい中、今度は安藤の退室と共に響く、十二連打のげんこつの音。
    「……ここからは、わしが授業を行う」
    「なんでわらひまでぇ……」
     授業を引き継ぐ山田の横で床に伸びた土井こどもは、教え子達と仲良く頭上に回転ひよこを飛ばしている。は組の教室では今日もまた、予定通りの授業が遂行されることはないのだった。

       ◆◆ その二 ◆◆

    「しかし、どーしたもんかね…」
     終業の礼の後、教室に残った山田は頭を掻いて困り果てている。やっと落ち着きを取り戻した土井は、しかしそれがゆえか、己の不手際ぶりを思い返して意気消沈し通しである。今にもチーーーーンと一つ鳴りそうな程。
     そんな土井の頬をつんつんつつく指がある。もう片方ではむにむにと揉んでいる。きり丸と乱太郎が土井の丸いほっぺを堪能しているのである。午後は委員会活動や個人の自由時間で他の生徒達は教室から退室していたが、乱太郎きり丸しんべヱは物珍しさと事の成り行きを見ていようという子供ながらの野次馬根性で居残っていた。
     今やいつにも増して子供らしい丸みを持った土井のほっぺに生徒達は興味津々、しんべヱは二人に並んで、ぼくも、ぼくも〜! と順番待ちする始末。
    「こらぁ、ふたりとも〜〜、やめなふぁあぃ……」
     しょぼくれた土井の元気は斜め下がり状態だが、生徒の機嫌は上々である。
    「えっへへ〜、下級生ができたみたいで可愛い〜」
     確かに黒い忍び装束を着ながら三人よりも小柄になった土井は、こうして並ばせて見ると一年生より年少の忍たまに見えなくもない。三十数年最年少の一年生だったのが、降って湧いたように自分達より小さな忍たまができたと思うと可愛くもなるのだろう。三人揃ってにこにこ顔。ほっぺたをぽにぽにされて悔し顔なのは土井である。
    「下級生じゃない! 可愛くぬゎい!!」
     わたしは先生だぞ! と必死に腕を振り上げるのだが、今の土井ではきり丸に頭を抑えられるともう太刀打ちできず、固定されたまま両腕を振り回すだけになってしまう。
    「ふはははは、いつもの仕返しですよ、土井センセ!」
     泣け、泣け! とでも煽るかのように、全身から〝いい気味〟を漲らせるきり丸は笑顔を絶やさない。
    「きりちゃん、その辺にしときなよ。土井先生また泣いてらっしゃるよ」
    「うぅぅうぅう〜〜〜っっ」
     きり丸の押さえつけから逃れられずに泣き面になる土井を庇ってしんべヱも「かわいそうだよ、きり丸〜」と口添えする。
    「そうだぞ、きり丸。人をおとしめるようなことをしちゃいかん!」
     最終的に嗜めた山田に思わず、へいへ〜いと軽口を流してしまったきり丸は、やべっと思うが速いかアイス一掬い分のたんこぶを作る羽目になった。
    「よかったなぁ、げんこつ、くれてやったぞ」
    「まいだぁりぃ〜〜……」
     へろへろしながらも「くれてやる」という言葉に条件反射で礼を述べてしまうきり丸に乱太郎としんべヱの参った笑顔が浮かぶ。その後ろから、慣れ親しんだ呼び声が教室の戸口から投げ込まれてきた。
    「ああ、父上! こちらでしたか」
     探しましたよと教室に入ってきたのは、すらっとした爽やかな青年。動く度、癖づいた毛先の総髪髷がくるんと揺れる。山田の息子、利吉である。着替えを持ってきたついでに顔を見ようと父・伝蔵を探していたらしい。
    「利吉。お前わざわざこんな所まで……関係者と言っても、学園内をうろちょろするのはあまり関心せんぞ」
    「父上がそうさせてるんじゃないですか」
     利吉はケロリと言ってのけ、常日頃逃げ回ってばかりの父親を閉口させる。
    「でも珍しいですね、教室にいらっしゃるなん、て……、え?」
     そして利吉の目は遂に、父の影に隠れるようにして佇む、とても小さな教員服忍者に目が止まった。
    「や、やあ、利吉くん。久しぶり……」
     自分に向けて片手を上げて、やや不自然な応え方をする、そのちいさなひと。利吉は父に向き直る。
    「編入生、ですか?」
    「土井先生だ」
    「……っは、はいい!??」
     当然の驚きように、むしろ気の休まる土井は、お馴染みの角行&鹿パペットを持ち出して……
    「いやあ、実はねぇ、かくかくしかじか……」
     本当に助かる方便である。

    「そんな、ことが……」
     こめかみに手を当てる利吉の額をたらりと汗が流れていく。この場合は、そんなあり得ないことが起こるわけないだろうが、というギャグ的発汗である。
    「原因不明で困っとるんだ。土井先生も不承知の出来事でなぁ」
    「……以前、ムゲンの壺に取り込まれたことがありましたよね? あれの副作用、とか…」
    「だとしたら他の取り込まれた者達にも同じようなことが起きているはずだが」
    「そんなことはない、ですよね……」
    「ま、まぁ、寝たら治りますよ、きっと……」
     だってギャグ作品ですし、と笑ってみせる土井本人が一番不安そうである。
    「原因がわからないのでは対処も難しい、か……」
     学園関係者達がもう何度も巡ったお堂を、利吉も同じく順繰り巡っている。
    「利吉、お前暇ならちょっと調べてくれんか」
    「ちょっと父上、わたしこれでも忙しいんですよ!?」
    「わしンとこにちょいちょい来るくらいの忙しさなら所用くらい聞いてくれてもよかろうが」
    「誰のせいでその忙しい中ちょいちょい来てると思ってるんですかぁ〜……ッッ」
     頭上で二人が熱を上げる中、その一段下では子供達も頭を小突き合わせている。不思議とそこに馴染む土井半助がまず溜息をつく。
    「はぁ〜あ〜。この人達も困ったなぁ、しょっちゅうこれじゃあ」
    「でも土井先生、ずっとこのままだと大変ですよね…」
    「心配するな。幸い、中身はいつも通りなんだから、最悪このままでも、まぁ、なんとかなるだろう」
     土井の前向きな言葉に素直に安心したしんべヱも朗らかな笑みを見せるが、安心しすぎてかお決まりになが〜い鼻が垂れてくる。
    「しんべヱ〜、また鼻が垂れてるぞ、まったく〜!」
     いつものようにどこからともなく取り出したちり紙で鼻をかんでやる土井。子供になっても土井の天性の大らかさがほっこりする一幕を見せてくれる。その同じ場面では山田の親子が、まだ妙な小競り合いを繰り広げていた。
    「父上が今度こそ母上の言いつけを守ってお帰りになると仰るのでしたら、この件、協力いたしましょう」
    「お前な〜、それが父の頼みに対する態度か!? 取引を持ちかけようなどと…しかも、土井先生の一大事なんだぞ!?」
     勿論、取引が成立せずとも利吉は協力するだろう。しかし、これは日頃言うことを聞かない父親をしょっ引く棚ぼたというやつなのだ。忍びでなくとも使わない手はない。
    「どうなさるんですか?」
    「う、…う〜〜〜ん……わかった、わかった! 今度の休みは帰るから! 母さんにも、そう伝えておいてくれ」
    「わかりました」
     これでわたしも母上のお小言をいただかなくて済みます、とルンっと去っていくせがれの姿が消える前から、誰に似たんだかと深い溜息をつかされる父なのだった。
     それらをまったくいつものやり取りと眉を下げて微笑ましく眺める乱太郎の横で、きり丸がやおら疑問を呈する口ぶりで話す。
    「でもなんか、ちょーっといつもの土井先生とも違う気がするんだよなぁ〜」
    「そりゃ全然違うよ! わたし達より小さいんだもの」
    「いや、そーゆんじゃなくてぇ〜…なんつーか……」
     珍しく表現に詰まる物言いのきり丸の言葉を、山田は静かに耳にしていた。その間に、鼻をかんでもらったしんべヱが急に、きょとん、とした顔をして土井を見つめる。
    「あれ、土井先生…?」
    「うん? どうした、しんべヱ?」
    「…あ、あははは、…あれぇ? なんかぼく、今、土井先生が全然違う人のような気がしちゃいました。なんでだろう、変なの〜」
     お腹すいちゃったのかなぁ、と呟きながら友人二人と共に食堂に向かっていく生徒に、土井は首を傾げる。
     わたしはわたしのままなのに?
     確かに忍たまのように小さくなってしまったが、中身が土井半助であることに変わりはない。土井はそれを確信している。周囲のみんなもそう思っているはずだ。
     寝て起きたら元に戻ってないかな〜などとぼやく膝元の土井をそのままに、山田がぽつりと呟く。
    「きり丸は、いい忍びになるでしょうな」しんべヱも流石大商人の息子、人をよく見ると内心思う山田は、穏やかな中に緊張感を湛えた声で続ける「ああいう子ほど心配になりますよ。無理をしすぎやしないかと」
     今は小柄ながら土井も担任教師としての顔を見せて、山田の視線の先、もう誰の姿もない教室の戸口に同じく目をやりながら応える。
    「そうですね……でも、心配はご無用ですよ」山田を見上げる幼い瞳は、土井半助そのものの輝きに満ちている「わたしが最後まで面倒見ますから」

     翌朝、コメディの神様は微笑まず、やはり土井は子供の姿のままだった。
    「ああ〜〜、今日も一日この体かぁ……」
     念のため今日も付き添うことにした山田と共にする教室への道すがら、疲れるんですよねぇ、この体……と、全身に対して大きく見える出席簿を両手で抱えた土井に山田が「ところで、土井先生」と呼びかける。
     すぐ傍らで振り向いたその人に、山田が掛けるのは懐かしいその言葉。
    「出てますよ」
    「えっ、…何がですか?」
    「その殺伐さですよ」
    「あ!」
     す、すみません…と肩を竦める土井は、言われて咄嗟に気を正す。ついでとばかりに鋼仕込みの出席簿を抱え直す姿は、買ってもらった贈り物を離すまいとする児童のお茶目さにも見える。
    「あれ? 山田先生、そういえば……」そんな土井が山田を見上げた時、ふと思い至ったかのように口に漏らす「髭をなさったんですね」
     何か印象が違うと思ったら……と笑う土井。さっきまでの冷ややかさをそれで誤魔化そうとでもするのだろうか、雰囲気が少し、丸くなる。
     髭を撫で付ける山田は、ああ、そうだ、と事も無げに請け合った。

       ◆◆ その三 ◆◆

     昨日の時点で嫌な気がしていた。『髭をなさったんですね』。今更にも程があるし、冗談なのだとしたら程度が低すぎる。山田は常に最良と最悪を天秤にかける。そしてどちらであろうとも必ず備え、最悪が思われるのであれば更なる最悪に備える。この状況の秤は、最悪に傾いていた。
    「伝蔵さん! い、一体これは、何事ですか!?」
     土井半助の体が子供のように小さくなってから三日目の朝。山田が纏ってやった寝間着で起き抜けた土井の最初の反応がこれだった。
    「体がこんな、子供みたいに……」
     既に教員装束を纏い胡座で腕組む山田の前で、土井はしきりに狼狽している。
    「それに、ここは、一体……? 奥方と利吉くんは……」
    「……半助?」
     呼びかけると、彼は首を傾げてみせる。
    「半助……とは、わたしのこと、でしょうか…?」
     記憶が退行している。

     山田は即座に動き出した。まだ話の通じる土井には、とりあえずここから出るなと言って部屋に閉じ込めておいた。方々伝達の末、山田の脳裏を最も恐ろしい事がよぎる。このまま記憶の退行が止まるだろうか?
     山田は忍術学園の中で土井と最も付き合いの長い人物であるが、それでもその若者が抜け忍として逃げ出してきた所からしか知らない。天涯孤独の身の上であることは知っている。が、それ以前がどうであるか。先達て天鬼のことがあった。あれはドクタケの無理謀略を正義と刷り込まれたからであるが、土井には空白の部分がある。誰も知らない、触れられない、恐らく、もうこの世に知る者のない無白の時間の横たわる部分が。
     土井の記憶が戻ることが危険なのではない。土井のその部分はあまりに純真なのだ。だから、以前の土井が浮かび上がってくるのなら、それに触れていいとは思えない。そして山田は、一番触れずにいるべき部分を覆い隠してしまおうと考えた。それが山田の正義と言えばそうなのだった。
    「戻り方にもムラがある。念のため明日、明後日は休ませておきましょう。わたしもあれを、傷つけたくはないもんですから……」
     校医の新野は黙って頷くとすぐに薬を用意して山田に渡した。
    「これで、二日間です」

       ◇◇◇

    「山田先生ぇ、お出かけですかぁ〜?」
    「ああ、今度の遠足の下見にな」
     学園の門番兼事務員・小松田が差し出す出門表にサインをして山田は出かける。紫草色むらさきいろの生地に山吹割菱を散らした上衣と霞色の下袴を着けた普段着姿は萎烏帽子なええぼし海松色みるいろが締め色となって如何にも粋な出で立ちであるが、出向く先は踊り見物でもなければ茶店でもない。先生らしく遠足の下見だ。
     土井と二人で行くはずだった遠足の下見に一人足を伸ばしながら、山田は遠くの山を眺める目で今後のことを思う。
     土井を眠らせてから今日で二日目。一晩付いていたが土井は一度も起きなかった。新野が手配してくれた薬がよく効いているのだ。薬は頓服薬として直に飲ませた。てらうよりも正面からの方が理に適う。実際、土井は素直にそれを飲み、今も眠り続けている。もしもの時のため、土井のことは二年い組の実技担当・野村雄三に任せてある。いや、むしろ、彼の方から任されると申し出てくれたのだった。
     ドクタケ忍者隊の稗田八方斎により現実とは真逆の観念から洗脳を受けた土井が、軍師・天鬼として、拮抗していた周辺地域の戦局を一変させてしまうなど諸々の波乱を引き起こしたあの一件で、土井の実力は明るみに出ている。しかし、その実力が全体の一片に過ぎないこともまた明々白々。誰も油断はできない事態であると認識されているということだ。そして、だからこそ、事は内々に収めておくべきと考えられた。万事至れり。情報は一つも漏れていない。
     遠足の下見は気を休めるためでもあった。忍びだてら、山田なら三日三晩寝ずに走ることもできる。しかし、今は持てる時間が快かった。楽をするというより、頭をほぐしながら思案に徹する時間が欲しかったのだ。これから一体、どうしたものか……。雲の流れが山田の胸中を洗ってゆく。
     どこをどうともなく、野を越え、山を越え、川を渡り、また野を越える。遠足とはいえ忍たまの課外授業、実践訓練の一環であることは、いつもの実技授業と変わりない。子供達の力で往復できる、実践に応用の効くコース。事前に土井と話し合って、は組の実力に沿う計画を立てていたのだが、山田は途中から、最初にアタリを付けた場所とは違う方向に足が向くことに気づいていた。しかし、今はこれでよい、と歩き続ける。気の向くまま、思うまま。実際、アテなどなんにも付けられずにいるのだから。
     息の上がらない体から溜息がついて出てきたところで、丁度、繁みを抜けきった。野原の向こうの木々が印象的な明るさのもと、ちらちら煌めいて見える。
     気づけば、そこは海と川の入り組む場所だった。不思議な光は低い崖から反射した水の輝きである。岸とも丘とも言えないそこに戯れる木々は、水辺から這い出るようにしてのたうつ藤の群れだ。どうやら一株だけではない、大きく長く連なっている。潮風にもめげず、水辺をもかいくぐり、日の当たる地上を求めて這いいでてきたのだろう。樹高は高くはないが、立派なものだ。天然の大藤棚が、まるで軒を連ねるように何町にも渡って続いている。
    「いやあ、これは……一里はあるかなぁ」
     思わずしみじみと感嘆する。まだ青い葉を繁らせるだけの樹林のような一望だが、既に幾つか蕾が見える。きっとあと数日もすれば、この崖伝いに見事な光景が広がるに違いない。海の青に藤の紫、水面に反射した光で緑は淡く霞むだろう。一層幽玄な景色が想像に浮かび、山田はどこか胸のく思いがした。
     一心地、息を吸えば、頭も冴え渡ってくる。
     遠足の目的地を見つけた。ここでみんなでお弁当を食べよう。山田は思った。

     一刻もしないうちに遠足の下見を済ませて戻ったその日の晩も、山田は土井の側で様子見をした。交代した野村からは不在の間も一度も起きなかったと聞く。
     大川学園長は懐が深い。今になっても土井を放逐ほうちくするような言動や気配は見受けられず、他の先生方もその姿勢だ。山田はなぜか、安心していた。日々の生徒指導の他に、きり丸の面倒さえ一人で見ている大の大人を相手に、行く末が気にかかって仕方がない。山田が見ているのは目の前の、一年生より幼い寝姿でなく、確かに見慣れた二十五歳の土井半助の姿なのだった。
    「半人前の半助が……」
     柄にもなくぽつり、こぼれるひとりごと。
     気がかりなのは、記憶の退行具合だ。年数刻みでもないし、眠らせたといって現実の時間と退行進度が比例するとは限らない。
     眠らせた。眠らせたが、だから土井の暗い時代をやり過ごせるかは分からないのだ。
     それに記憶が退行しきったらどうなる? 天鬼になり得る人柄が、また現れるのだろうか?
     彼はその時どのような人物で、何を話し、どのような行動を取るか。又は、それらを行えるのか。──何も見当がつかない。
     職員、手の空く者は皆この二日間、書という書をひっくり返すように漁って読み解いた。しかし類似の記述は見つからず、一同、今は土井の目覚めを待つより外なかった。
     土井は目覚めた。新野の見立て通り、入眠から丁度二日後のこと。目覚めた土井は、もぬけの殻のようだった。

       ◇◇◇

     春を迎える風が吹く。ぬくぬくとしてしめやかな陽気に桜がはらはらと舞い、一面の花絨毯ができあがる。花芯を啄む鶯が薄水色の空を好きに飛ぶ。それに相応しからぬ緊迫感の中、学園長の庵で山田は下手に座して現状報告をしている。
    「きっと、全てを失った直後に戻っておるのじゃな……」
     包むような学園長の声に一層の悲哀が感じられる。山田はそっと頷いた。
     目を覚ました土井は最早、誰も知らぬ土井だった。誰のことも知らないし、誰も知ることがない姿だ。これをして土井半助と名指せるだろうか。しかし便宜上にしろ何にしろ、彼らはその名でしか彼を呼べない。
    「ここに、置いておいてよいものか……」
     学園長の言葉に敏感に反応した山田だったが、続く言葉は、想像したものとは違った。
    「……土井先生の今後に障りなければよいのじゃが」
     土井を置いておけない、と言われないことに山田は重ねて安堵した。それと共に、学園長の配慮と土井の今只中の状態に思いが及ぶ。
    「もう少し、眠らせてやれればよいのですが……」
     新野の言うところ、二日分使った眠剤は強い薬で、あまり使わない方がよいらしかった。
     用意されたお茶は冷めている。もう湯気も立たない。
    「今はただ、待ってやることしか……」
    「今まで通りなら、もう一晩眠れば、また一つ時が下ろう」
     分かっている。山田もそうであろうと思う。今もぬけの殻で何も話さぬ、聞こえぬ、知らぬとする悲痛な姿も、一眠りして次の日になれば一区切り下った別の、まだ喪失を知らない時代のその子となるのだろう。しかし、では、その先は──…? 眠り続けた先に何があるというのか? その先で、土井半助は戻ってくるのか?
    「見届けましょう、山田先生」
     微笑む学園長の頼もしさが山田を小さきものにならしめる。山田もそれを写すように微笑み、重たい息を胸に吸い込む。全ては、はい、とうなずく声に籠めて吐き出した。

       ◆◇◆

     山本シナは宿業しゅくごうについて考えている。床に延べた幾つかの書はよく書けており、今から教えることは少なかろう出来だ。習字の生徒はここにはいない。日にあまり当たらないのは良くないからと、少し外に遊びに出させた。病ではないのだから。
     今、学園の生徒達は授業中だから、鉢合わせすることはないだろう。山本は生徒がきれいに洗った貸出用のすずりに水を引き、墨をする。気に入りの墨を幾つか組み合わせ、好みの色を編み出せば、雲の立ち上るように墨は溶かれ、色をなす。
     墨色とはふしぎだ。色のあるような、ないような、見えるような見えないような、正に雲や虚空を見つめる心地にさせてくれる。筆を執って、そこにえる気のするものにあてるようにして、そ、と筆先を進めると、つらつらつらと、書きいだされてくるのが今の己だ。この日の山本の字は、あまりいい顔をしなかった。
     山本は山田伝蔵のことも気にかけていた。山田との付き合いも早や長い。この熟練のくノ一にとっては彼ですら、いとも可愛いらしいものだけれど。ただ、あれほどの戦忍びであった人が、こんなに安穏とするだなんて。山本は山田の平和に心を寄せる。
    「宿業とは因縁を巡るものなのですよ、山田先生」
     窓辺に寄り添う山本の白い肌が能舞台の演者にも似て浮き出すように輝く。窓外、春の光は彼女に眩い。ひさしの向こう、視線の先。山本は二人の少年の姿を見ていた。

       ◇◇◇

     一年は組では、土井はこの数日間、体を元に戻すため金楽寺きんらくじに修行に出掛けたと聞かされていた。生徒達は「先生、早く直るといいね〜」と、きゃらきゃら笑い話にしている。急な坂東出張と聞かされた天鬼騒動の時と同じ突拍子のなさではあるが、目の当たりにしたことが理由であるなら疑う余地はない。子供達は安心しきっていた。ただ、きり丸だけは直感的に、それが大人達の〝優しい嘘〟であることを見抜いていた。
     きり丸は何とかその優しい嘘の真相を掴もうとこの三日間、探りを入れていた。しかし、相手はただの大人ではない、忍術学園の大人達だ。そうは問屋が卸さない。山田にはかわされるし、他の組の教師も皆上手い具合に掴まらない。くノ一教室の山本シナ先生の後も追ってみたが、気づかれたのか、途中で見失ってしまった。それでもきり丸は諦めなかった。自分より小さいあの子供の姿でもいい、土井先生の姿を直接目にするまでは、絶対に諦められない。彼にはそんな意地があった。そしてそのようにする道理もあれば筋もあるのだった。
     色々考えた末きり丸は、土井の身柄は忍術学園の敷地内にあると考えた。外にいると言っておけば内側を怪しまれずに済む、という寸法だ。
    (おれならそうする)
     それで内側の様子を窺い始めるも、勿論そんなことでボロを出してくれるものではない。土井の居所は依然として掴めない。しかし、粘り強く待つのも忍びの極意の一つである。きり丸はそれを成し遂げた。土井の方から現れたのだ。
     学園内、やぐらと園庭の間に茂る木々の中にぽっかり空いた空間があり、そこできり丸はやっとその姿を見つけだした。
    「土井先生……!」
     土井はまだ小さな姿のままだった。庭石のような石台に腰をかけている。なんだ、やっぱいるじゃん! と飛び上がりそうになった。その声をぐっと堪えて近づいていく。緊張で胸がどきどきして、鼓動を耳元で聞いているのかと思う。周りに付き人が一人もいないのは不自然だ。きっとどこかで誰かが見ている。それでもきり丸は今しかないと腹を決めていた。言ってやりたいことがたくさんあるのだ。
     どれだけ心配したと思ってんスか。またこんなに探させて。いっしょに帰ろうって言ったでしょ。もうどこにも行かないって約束した。なんでまた、ぼくのこと置いてっちゃうの……
     たくさん、たくさん、出てくる言葉があるはずだった。言いたいことが本当にたくさんあったのだ。たった三日間だけでも、また天鬼のようなことが、そうでなくても何か良くないことが土井の身に起きて、また、また……──あの暗い、ひとりぽっちを感じることになったら、どうしよう……土井のいない長屋で、帰ることのない土井を探し続ける夢を見て……
     本当にたくさん、言いたいことがあるはずだった。その、顔を見るまでは。
    「土井、先生……?」
    「……だれ?」
     …ヒュッ…と、下手な小笛を吹いたような音がした。それをきり丸が自分自身の吹き返しの息の音と分かったのは、きり丸自身が目に溜まりだす涙を堪えるために喉の苦みを認識した時だった。
     気づいた時には走り出していた。走り出した時に土井の体にぶつかったかもしれない。そんな感触がしたような気がする。でもそんなこと気にしていられない。どうでもいい。そもそも、ぶつかったのは土井だったのか?──考えたくない。
     きり丸はギュッと目を瞑って走った。どこへ向かって走るのか分からなかった。とにかく、あの子の引力の届かない所まで逃げなくてはいけなかった。そこは涙の気配が支配しているから。
     園庭の池のところまで来て、よたよたとへたりこむ。水鏡に自分の顔を見る前に、きり丸は首を水中に突っ込んだ。
     顔を洗って体温を下げれば涙と鼻水は出にくくなる。忍術学園に来るより遥かに前からきり丸が知る生活術の一つだ。涙の味はいやだった。みじめになるから。鼻水の味はもっといやだった。もっともっとみじめになるから。
     池から顔を上げたきり丸は生理反射でげほげほとむせる。池の生臭さよりも、まだ喉が締め付けられるような苦しみを感じる。動揺で、口から何か重たい塊が飛び出てくるのではないかと思われた。心臓がバクバクしている。走ったせいじゃない、きり丸は分かっている。出てくるのだとしたら、きっとこの心臓だ、と思った。だからきり丸は胸と、喉と、口に、手を当てる。驚きすぎた自分の心臓が、ひっくり返って出てきてしまわないように。脳裏にあの悪夢の影がよぎる。それはきり丸にとって耐え難い想像で、絶対にあってほしくない現実だ。
     代わりに出てきたのは、鉛の心臓よりも重たい言葉だった。
    「土井先生じゃ、ない……」

       ◆◇◆

     その頃、山田の部屋に利吉が訪れていた。は組の授業はまた教師陣が取っ替え引っ替えで対応している。以前にあった、タソガレドキ忍軍の雑渡昆奈門と諸泉尊奈門が代講を務めたような、他陣営の誰かが加わることは免れた。防衛線を張るのも忍びの務め、今はまだ、どちらであっても騙されていてほしい。山田は土井のそばに付くこともあって忙しい。外回りの多くの仕事を利吉が担ってくれている。
    「少し離れている間に大事になってしまっていますね」
     誰にもどうしようもないこととはいえ、利吉の声はやや硬い。山田は敢えて触れずに話を進める。
    「どうだった」
    「成果は今ひとつです。色々周りましたが、こんな不思議なこと、他に類もないようで……」
     悔しさをにじませる利吉は、しかし、はたと気色を変える。
    「ただ、少し離れた地域のお寺で古い言い伝えを聞きました。魂呼たまよびと言って、魂に呼ばれて心引きずられた者は肉体と精神が時を遡ると……」しかし、と利吉は強く区切り「伝承はここまで。呼ばれた者が時を遡るとどうなるのかまでは、文書でも口伝でも、何も……」
     山田は黙って頷いた。
     調査を続けると言って利吉は姿を消す。その前に、土井の顔を見ていかないのかと聞けば、利吉は少し意外そうな表情をしてみせ、それからいつもの笑みで、今はやめておきますと答えた。
     不甲斐ないなと山田は仕方なく微笑う。こんなことが怖くて務まる忍びがあるか。
    「そうか……。魂に呼ばれたか」
     ひとりごちる山田の溜息を拾う者はいない。

       ◇◇◇

    「山田先生、きり丸です」
     日が暮れきった後、障子の向こうから声が掛かった。書き物をしていた山田は溜め息の気配を殺しておく。返事をすると丁寧な断りを入れたのち、緊張した面持ちのきり丸が職員室の障子を開けた。土井がいないことに目を利かせて安心したような、不安なような、複雑な内面を空気に漂わせる。
    「入りなさい」
     穏やかな山田の声に、きり丸はやっと部屋の内側に入って戸を閉めた。
     目の前で正座したままじっとしているきり丸に「どうした、きり丸。言ってみろ」と山田が促す。そして真面目な顔のきり丸が問う。
    「土井先生の具合はどうですか」
     静かな中に僅かな震えが見える。目一杯虚勢を張っているのだろう。油火の灯りが風にゆらと揺れる。
    「土井先生は金楽寺でよく養生しておるそうだよ」
    「ぼく、見たんです。土井先生、学園の中にいますよね」
     床に落とされていた視線が部屋に差す月光のようにまっすぐ山田を見据える。
     またお前なのか。山田はほっそりした気持ちで思う。これに絡むと、この子だけは騙されてくれない。
     山田は分かっている。はったりではない。きり丸は今の土井と出くわしてしまった、否、探し当てたのだろう。よく見つけたものだ。今の土井は、もう誰が見ても当人とは分からないかもしれないというのに。姿だけでなく中身まで、皆が知る土井ではなくなってしまっている。しかし、きり丸はその状態の土井を見つけ、気づき、そして悟った。利吉に見習わせるべき恐れ知れずか。しかしだからこそ、山田の目にはそれが危うく映る。
     努めて落ち着いた声で山田は話す。
    「心配ない。少し混乱しているようだが、今は落ち着いている」
    「でも……!」山田に向けた声に責めるような語気が含まれると「土井先生、ぼくのこと覚えてなかった……」
     ぽたり、あどけない頬を伝う涙が一滴、床に落ちる。
     流石の山田も思案する。滅多なことは言えない。今、きり丸が求めているのは自分に帰る場所をくれた土井であり、それは山田でも、誰が成り代われるものでもない。きり丸にとっての土井の価値を山田は分かっている。そこにある絆の深さも知っている。何も言わずに済むのなら、そうしておいた方がよい、というのが山田の本音だった。
    「お前はそう思うのかい?」
     軽やかな、頭を撫でるような声音。きり丸もハッと目を上げる。半月に似た目が優しく自分を照らしているように感じる。きり丸はその月を眺めながら、ふるふる、と首を横に振った。きり丸、と呼びかけてくる、おおきなひとの姿が頭に浮かぶ。目に溜めこまれた涙がまたこぼれそうに揺れる。
     こっくり頷き山田は言う。深く柔らかな声がきり丸のこころをさする。
    「いっしょに待とう」
     今はそれしか出来ないけれど。
     きり丸の喉が微か震えるように上下する。それから生徒は先生に倣って、首をこくりと縦に振った。
    「今日はここで寝るか?」
     今度は小さく首を横に振るきり丸。
    「乱太郎としんべヱが待ってるから……。戻ります」
     そうか。小さく受け合って送り出す。
    「山田先生、……ありがとうございます」
     おやすみなさい。静かな声が夜の帳をふわりと返す。小さな背中が揺れるのを山田はじっと見守った。

     最後まで面倒を見ると言ったじゃないか。誰にともなく文句の一つでもぶつけたくなった。山田は自分の胡座で頬杖をつく。
     目下、小さな塊が規則的に揺れている。今はまた、どの時空を彷徨うのかもわからない幼子。枕の下か、夜着の中の夢でも覗けば現在地を割り出せるかもしれない。
     そんなまさかと鷲鼻から据えた息が漏れる。利吉でも見つけられなかった伝承の末尾が憎たらしい。
     鐘楼櫓しょうろうやぐらの下層には塀と塀の間に忍術教室半分程度の仮部屋が組み込まれている。いざという時、これが外敵のための詰め所になるのだ。規模が大きく見えない仕掛け壁から入るので表面的には入り口も分からなければ、そこに空間があることさえ認識できない特殊な一室。少年となった土井は、今そこで保護されている。
     保護、というと聞こえがいい。これは本当に保護なのだろうか。隔離というのではなかろうか。何から隔離するのか。夢か現実かまやかしか。自分達現世を生きる者とは違う、異質な者として扱っているのではないか。山田の悩ましさは募るばかりだ。
     ──追手に迫られた拍子に人の家の団欒をぶち壊してきた抜け忍。学園で子供を相手にするというのに殺伐とした空気を拭えなかった若い人。半人前の半助という名前を手放しで喜んだ名も無き男。生徒の面倒を見るのだか見られているのだか分からん同僚。優しすぎて忍者に不向きな胃痛持ちの忍術教師。脅威的な軍師になり得る手練れの忍び。誰も知らない抜け忍よりも前の過去──。
     だから何だというのだ。山田が今思い浮かべるのは、へなへなと頼りない二十五歳の土井半助と、先程の直談判に来たきり丸の姿だ。
     あの子に早く返してやらねば。帰る巣があればこそ、雛は思い切りよく羽ばたける。
     お前がどこの何者だろうと、もう関係ないのだよ。
    「おうい、どこまで行くんだい」
     よく眠る子を山田は暫く見つめていた。

       ◆◆ その四 ◆◆

     四月を終える前の雨上がり。空気は爽やかなようでいて少し湿っぽく、生暖かい。時は一日遡り、山本シナによる書道の習いが行われた日の朝のこと。
     目覚めた少年は礼儀として生まれを名乗ろうとしたそうだ。だが、応じた大川平次渦正は『貴殿は今、何者かに命を狙われている。だからして、我々にもそれを告げるべきでない』と、それを控えさせたという。
    「土井先生が知らせぬものを、わしらが知ってはいかんじゃろう」
     座したまま頭を下げる山田に、学園長は肩肘をついて口角を緩める。
    「お主もまったく、世話が焼けるのぅ」
     山田は下から苦笑を滲ませる。
     かくして少年は忍術学園に預けられた大事な御身ということになった。付き人は背景を鑑みて山田一人とされた。

     用意された隠し部屋を覗いてみると、彼は小さな体をひっそりとさせ、念仏を唱えているようだった。
    「山田殿。これは気づかず、ご無礼を」
     すぐに気づいて振り向くと、深々とお辞儀をして山田を迎える。
    「いえ、こちらこそ。邪魔をしてしまいましたな。申し訳ない」
     山田もこれに恭しく応えて入室する。流れから側仕えの忍びの仕草で座を占めれば、恐縮するのは少年の方だった。
    「お経を唱えておいででしたか」
    「はい。教えを唱えていれば御仏のお心に近づける気がするのです」
     わたしはもっと学ばねばなりませんが……。控えめな口調。
    「えらいぞ」
     言ってから、つい普段生徒達にするような態度を取ってしまったことに気づき、ややと取り繕う羽目になる。
    「ああ、これは失礼。ここは学園で、わたしは教師をしておるものですから、つい……分不相応なことを」
    「いえ、…い、いえ……」
     なぜか首を竦めて俯く少年に、山田は首を傾げる。そんなに気を悪くしたのだろうか。
    「どうかなされましたか」
    「いえ、その……父を思い出しまして……」
     一瞬、凛とした面立ちに少年らしい影が浮かぶ。親を恋しむ子の顔だ。
    「あなたのお父上は立派な方ですな」
     しみじみ伝えるような山田の声に、少年は「滅相もない」とへりくだってみせるのだが、気恥ずかしげに頬を上気させるのだから、何とも可愛げを感じさせる。
     少年はまた、ふ、と顔色を変え──何かに気づいたように──山田の顔をまっすぐ見上げる。
    「なぜ……あなた方は何故こんなにも、わたくしどもに親身にしてくださるのですか」
    「……なぜでしょうなァ。まぁ、巡り逢うたが何かの縁。もう放ってはおかれぬのですよ」
     この少年は、とても素直である。今に真っ直ぐ育ってゆく。そう感じさせるものがある。しかし、大事な身柄であるがゆえ警護していることを少しも疑わないのはその素直さからだけではないようだ。彼は何度か政敵や野盗に襲われる経験をしたはずだ。それは少年だけではない。家族や身近な者も含め、戦乱の兆しを目撃しながらその最中に生きる者が避けては通れぬ火の手に渦巻かれるようにして過ごしてきた。だから、この言葉を信じる。学園を信じる。それを信じるに足る材料が、既に心に刻みこまれている。
     そしてだから、少年は山田の真心を信じるに至る。
    「山田殿。畏れ多いこととは承知の上、一つ、頼みを聞いてはくださりませぬか」
    「何なりと」山田は先を促す。
    「わたしは、今はまだ名乗れぬ身。しかし、やはり名が無くては何かと不便。それで……もし、山田殿がお許しくだされば、なのですが……」
     少年は、すうと静かに頭を下げる。山田の視線の先に彼の旋毛の影が見えた。こんなに賢そうな旋毛だったかなぁ、と山田はぼんやり思う。
    「仮の名でもよいのです。山田殿が何か一つ、名付けてはくださりませぬか」
     山田は一呼吸置いて、「それは名案」と涼やかに返す。
    「……しかし、今日はこれから書の時間があるとか。考えておきますので、仮名は明日差し上げるといたしましょう」
     その言葉に少年は一際明るい顔を上げて見せる。明日。この目の前の人に、その明日は来るのだろうか。山田はほほえみ返してみせる。

       ◇◇◇

     誰にでも来る明日が今やこの男にだけは訪れない。仮名を所望した者はやはりいなかった。翌日目覚めたのは、また一区切り遡行した別の土井。どんどん幼くなっていく。そのちいさな身体に相応しい精神が現れだす。山田は焦りを隠し続ける。自分さえも欺いて目の前の事実とだけ向き合う。土井の持病が自分に移ったか、臓腑の捩れる思いがする。しかし、胃の軋みよりも酷いのは現実と焦燥だった。文字通り焦れるほど、それは山田の逸る気持ちを募らせた。幾ら募らせてもどうにもならない事柄。土井は一体、どこまで戻ってしまうのか。このまま孤独を重ねてゆくというのだろうか。それではまるで、地獄を独りひた走るようなものではないか。誰も知らない道を、何もかも捨て去りながら、彷徨う──…。
    (お前はうちの氷ノ山の家で鬼を祓った。違うのか、半助……)
     問いかけたい相手は今、山田の前に現れない。
    「やまだ殿、もう一本お願いします!」
     日々真新しくあり続ける少年は親の不在を怪しまない。山田の剣術指南に食いついて、きらきらと汗を散りばめては輝く表情で向かってくる。利吉はもっと悔しそうな顔をしていたがなぁ。それは己の厳格さゆえだったことを棚に上げ、山田は所々回想を伴う。
    「無理は良くない。今日はこの辺にしておきましょう」
     肩で息する少年は実のところくたくたなようなのだが、それでも実技指導者にしっかりと礼をする。よたつく体を支えてやると今にも眠りに溶けてしまいそうだ。体を拭って飯で腹が満たされれば、皿を下げる頃にはもう首を垂れてしまっていた。
     その夜は教員長屋で寝かせることにした。いつも二十五歳の土井が眠っていた場所に、今日は少年の姿が横たわっている。まるで初日に戻ったようだ。深く眠り込んでいるらしい。寝姿はまったくあどけなく、目にも子供らしい体温の高さを感じさせる。このまま、もし、戻らなかったら、……。山田はしばらくこれを氷ノ山に預かろうと考えていた。
     あの夜訪ねてきたきり丸の姿。今目の前にある幼い土井の姿。来た道を戻るしかないのなら、それは自分にしか負えぬ責──しかし。
    「あの子を置いては行けんぞ、半助……」
     月が朧に烟り星影の中で身を潜めている。薄雲の波間に浮かぶそれはまるで仏の見開いた瞳のようだ。木々を誘う風もない。辺りは静かで、鳥も獣も虫も鳴かない。
     一年生の長屋の一室では夜着の中、きり丸が一筋涙を零してやっと寝つく。山田の隣では少年姿の土井が健やかな寝息を立てている。その部屋の前庭に曲者くせものの気配などあろうはずもない。一見してそれは、平穏に見えた。これを嵐の前とたとえるのだろうか。
     夜霧の中、障子越しの火がふっと消えた。学園内のどこにも、ともる灯りはもうなかった。

       ◇◇◇

     土井の身体が小さくなって八日目。今までで一番、その体に相応しい魂が宿っているようだ。歩き方、首のふり、動作やことばの具合、すべてがどれをとってもあどけない。数え十に満たない子供の所作。それでも身のこなしは武芸を習う者のそれで、しかもその年端もいかない姿でありながら汎ゆる部分においてたおやかさが見て取れる。山田は内心嘆息した。
     土井半助は、遂に本物の少年になってしまった。彼の来た道のはじめに戻った。少年は、山田が伝える言葉をよく聞き、よく弁え、爪の先まで嘘のように穏やかに振る舞う。おとなしいが瞳はまっすぐ曇りがない。見定めるというよりは、見極める光を持つ、定めし者のそれ。日陰に反射する陽光の裾を思わせるそのましろく明るい光の予感が、かえって山田の物悲しさを強めてしまう。
     山田は物悲しかった。うらさびしかった。自分もこんなふうに感じるようになったかと自嘲さえする。どの感情も、一つも表には出さねども。
     ああ、自分は生きているのだな、と山田は思う。では奴は、どのくらいかは生きていたのかなァ。山田は今、聞きたいのだった。
    「やまだ殿? どちらへゆかれまする?」
     幼い声が呼びかける。ああ、どこへも。どこへもゆきませぬよ。返せば、その子は口元だけ、はにかむようにして笑んでみせた。
     故あって保護者から預けられた、保護者は必ず連れに戻ると約束した。よくある子供を待たせておく口実。この子はよく、守っている。それでもやはり心許ない。それならこの場の庇護者をや一番に頼る。それが山田で、だからこの子は山田から目を離さないのだった。山田が思う以上に、彼は山田に気を遣っている。きり丸が土井にそうであるのと同じように。
    「ここは少し退屈しませんか。どうです、ちょっと気晴らしに遠出でも」
     しゃがみこんで下から見上げるように手を差し出すと、抑える冒険心が目に溢れでて隠せない。そんな瞳が山田を見返す。わくわくと、どきどきと。ほんのすこし、悪戯を前にした時の、躊躇いと。そのちいさな手がぎゅっと握った自分の手で、山田もそのやわこい手をきゅっと握り返した。

     子供の時間感覚は、大人のそれとは違っていて、一瞬が永遠で、永遠が一瞬だ。蝶の羽ばたきはゆるやかな洗濯物のはためきに見え、空をたゆたう雲は駆け抜ける馬の群れに見える。ぴんと背筋を伸ばしてやや立派げに歩くその御子は、しかし首が細すぎるし腕もやに手折たおれてしまいそうである。その頭の中はどうなっていて、何を見て、聞いて、触れて、どのように感じ、いつ、どの時間軸を生きるのか。四十路を踏んでとうの経つ山田には、到底図りかねることだ。
     腕を引く山田は、この子にこの道が越えられるかなと、ちらと思う己をこそ気にかかった。そんなこと、利吉には思いもしなかったくせに。こんな考えを知れば、少々神経質のきらいが過ぎる実子は、また小言をまくしたてるに違いない。自己弁護するわけではないが、利吉を育てていた頃の自分と今の自分は異なると山田は心中反論する。人間としても教師としても円熟味がまるで違うわけで、同じ人間だが似て非なるものなのだ。ただ、倅の教育には随分気を使ったつもりだと思うものの、しかし、それが本当に息子の為であったのか、自身がそう思い込んでいただけなのかどうなのか、今の山田には判断がつかない。この戦続きの不安定な世間にあって、生き延びていくため、また忍びの家に生まれついた者の定めとして、誰よりも厳しく鍛えてきた自覚はある。けれど、この年になって教師とはまた少し違う立場から生徒ではない子を手元に見てみると、子供とはこんなにも小さいものか、と急に思い出したように山田は感じるのだった。……自分もあれに無理をさせたな。山田は目の前の少年を通して認めざるを得ない。そして同じ対面鏡に、この子の親のことを思うのだった。この子に無理をさせたと思うのだろうな……。
     降って湧いた素人の子供との時間によって物思いに駆らされる。その頭を、しかし山田はぶん、と一振り、払いのける。こんなことではいけない。現実を見つめて応じなければ。大人であろう、忍びであろう! 言い聞かす。おかしなことに最近は、日ごろ線で引いたように整理されている山田の世界が混乱しているのだ。務めを忘れてしまいそうになることさえある。
     今いちばん大事なのは、この少年がどうなってゆくのかということだ。
     繋いだ手の先の、ほそこい子を見れば、気づいた向こうがふい、とこちらを見上げてくる。目が合うだけで小首を傾げるその無防備さが、与えられた愛情のぬくもりを伝えてくる。そこに溢れる安堵の豊富さを感じるほど、山田は何とも言えない気持ちに晒された。

    「疲れたら言いなさい。無理をしないように」
     つい、いつもの教師口調で言葉がけするも、少年は頷きながら、平気です、と答える。首にかけさせた一年生用の竹水筒だって、大きすぎて不格好に見えるほどのくせに。ほてった頬を濡らした手ぬぐいで拭いてやれば、少し気恥ずかしげにしながらも小さな林檎を手にくっつけるようにして戯れてくる。さあ、もうすこしがんばろうと手を引き、様子を見ては休み休み歩き続け、二人はやっと丘を登っていく。どうしてこんなに歩いてきたのだろう? 山田は今更不思議な思いに駆られる。何か考えていたようで、何も考えずに来てしまったようだ。それに誰にも伝えずに来てしまった。そろそろ戻らないとみんな心配しないだろうか、もとよりこの子の足で来るような所ではない。忍たまの遠足でもあるまいし……。思っていると、見覚えのある道に出た。あれ、あちらは……
    「あ!」
     文字通り、あっ、という間に少年は走り出していた。これ! と声を掛けるが子供の足はすばしこい。追いかけて、茂みを掻き分け突き進む。そこにざあっと広がる光景は、慌てた山田を黙らせた。

     見渡すかぎり藤のさざなみ。優雅に棚引く叢雲のように岸壁沿いをどこまでも、貴い藤のあわ紫が埋め尽くす。東風こち、春霞を蹴破り、見せる冴え冴えとした青。光源ばかりが西のかた、その異彩を放つのみ。
    「父上!」
     指差す吾子あこがそれを叫ぶ。
    「ごらんください、満開ですよ! わあ、今年もみごとですねぇ」
     澄んだ高い声が、それとよく似た空にまで舞い、風がその声をどこへともなく運んでゆく。
    「つぎは母上ともまいりましょう? きっとお喜びになるはずです」
     無邪気一途な子供の声が、父に向けて呼びたてている。
    「父上?」
     芯の透明な少年の瞳にそれを見つめる人の影が映る。まだ何も知らない、藤を見た数もかぞえられようその瞳に、映っている今年の藤と、空と、父の姿と。そこにはきっと母もおろう。そこにはきっと光があろう。未明の夜半などそこにはないのだ。
     男は暫く口ごもった後、ああ、次はみんなで来よう、と手を伸べ招く。
    「……おいで」
     そのちいさなひとは何の躊躇いもなく、大きく丈夫なその手を取り、尚も無垢な笑みを見せた。は組の連中と同じ健やかな、いや、どこかそれ以上に屈託なく感じられる笑顔。
     手を繋いで歩く横顔に利吉の姿がふと重なる。そうだ、あれにもこんな頃があった。そしてお前にも、こんな時代があったのだよな……。
     胸が微かに引き攣れる。この子の名を、ついぞ山田は呼んでやれない。
    「さあ、いっしょに帰ろう」
    「はい!」
     二人並んで帰る姿を藤の並木がそぞろ見送る。あわくたなびくふしぎな夕べ。おぼろのような、かすかなしらべ。
     藤がざあざあ鳴いている。風に流されそよぐむらさき。さざめく蔦に青葉の木陰。引き寄せる海嘯かいしょう、茜さす丘、いつかの光景、ありし日の面影……。そこに親子の姿はすでにない。

       ◇◇◇

     翌日、まるで今までの数日間が夢であったかのように、不思議と土井の姿は記憶と共に戻っていた。二十五歳で胃痛持ちの、忍術学園一年は組教科担当担任。山田が名付けてやった、土井半助を名乗る青二才。
    「山田先生、ご心配おかけしたと思います。実は、途中から記憶が曖昧で……」
     何か粗相はなかったでしょうか。おずおず尋ねる土井に山田はいつもの調子で答える。
    「そうですなあ、ちょっと心配しましたが……まあ、どうという事はありませんでしたよ」
     土井が如実にほっとした顔を見せるので、山田は無遠慮にその頭をぐしゃぐしゃと掻き回して言った。
    「まあ、よかったな。でも、あまり心配をかけるな?」
     きり丸が気にかけていたぞ、と付け加えれば、あっ! と慌てだす土井。
    「教師兼保護者失格ですね、子供に気を遣わせるなんて」
     面目なさげに頬を掻く。いつもの土井だ。変わりない。
    「遅いぞ、半助」
     ぱっと上がる顔。にわかに広がる微笑み。
    「お待たせしました」
     ははは、と情けない面で笑う。そこに昨日の少年の微笑みが浮かぶ。
    「時に、土井先生。次の遠足なんですがね。花見物としませんか」
    「花見物、ですか?」
    「藤が見事な咲きっぷりの穴場を見つけたのですよ」
    「へぇ、藤見ですかぁ。いいですねぇ」
     藤の花を思い浮かべているのか、どこか懐かしげな表情でくうを眺めた土井は次の声を掛けようとした山田に気づかず、それをぱっと口にする。
    「きっと生徒達も喜ぶでしょうね」
     ああ、そうだろうとも──山田は頷く。
     山田の瞼に藤のさざなみが見える。そこに集まる生徒達と土井、そして自分の姿。もしかすると、そこにあの子もいたやもしれぬ。他にも影が宿ったやもしれぬ。あの子を呼んだ、いつかの魂が、山田をそこに呼んだのやもしれぬ……。
     山田は〝今〟を噛み締める。すべての時間の先端で、空間で、最初で終わりで全てである、今。この今現在の瞬間、その尊さを、思い知る。現世の中で、いつでも此処この一瞬が全てであるということ。そして足跡すら消した空白を駆け抜け、生き抜いてきた目の前の男が今こうして自分の眼前にいて、ふにゃふにゃと見知った笑顔を見せている、この一寸の時のことを。あの子の素直な微笑みを……。どうして忘れられようか。その一瞬一瞬の連なりが、やがて永遠と呼ばれるものになってゆく──……。
    「半助、今度氷ノ山に帰るから、お前も一緒に来なさい。きり丸も連れてきていいから」
    「えっ、利吉くんとの約束、あれ本気だったんですか!? どうしたんです、珍しいですねえ。ついにお覚悟を?」
     わたしときり丸は盾じゃありませんよ? と勝手な茶々入れをする土井のことは捨て置いて、山田は続ける。
    「ああ。まあ、そんなところだ」
     わたしなりの覚悟だよ、と山田は小さく頭を掻く。
     窓から差し込む光は淡く、初夏間近の爽やかな気配を運ぶ。段取りがついた遠足の日は近い。藤棚岸は幽玄見事に迎えてくれることだろう。それぞれの人生に咲く、今を。



    晩春、薄紫のかんざし飾りが
    そのあどけない頬を撫でただろう
    あなたと共に参ります
    まだかよわい手を伸べて
    共に行かむと歩んだろう
    すべてを奪った風の名残りが
    君を軋ませるのか 未だに

    そして君は春に帰る
    何も知らなかった 無垢なる花に護られて



    【   そして君は春に帰る   終   】
    ※本作中の〝魂呼び〟なる伝承は創作です
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